「土神ときつね」は、ひりひりするような読後感があります。
野原の北のはずれにある、一本のきれいな女の樺の木には「土神」と「きつね」二人の友人がいました。
土神は、神とは言え、供物もあつまらない、身なりもぼろぼろです。
狐に嫉妬してこころおだやかではありません。
きつねは博識でとてもおしゃれ。土神に対抗心をもっているようです。
あるとき、きつねと居合わせた土神は、狐への嫉妬と怒りを抑えられなくなり、耳をふさいでかけだします。
そして大声で泣きころげまわるのでした。
秋になり、穏やかな気持ちになった土神は、樺の木に「いまなら誰のためにも命をやれる」とまで言いました。
きつねにまで
「いい天気だ。な。」
と明るく言うのでした。
するときつねは、、、、、、。
賢治の作品を読むと、美しいものに触れて、自分が清められたような気持ちがします。
しかし、この「土神ときつね」は、本を閉じて、見なかったことにしてしまいたいような物語です。それでも、また手に取ってしまうそんな物語なのです。
博識なきつねは、農学校の教師でもあった賢治を連想させます。
文学や芸術にも詳しく、当時としては相当「インテリ」であった宮沢賢治。
そんな自分を、自虐的に描いているようにも思えます。
そして、土神の無骨さ、激しさも賢治と通ずるものがあるのかもしれません。
神であっても、完ぺきではない土神。
身なりがきちんとしていて、知識も豊富なのに、実はうそで固められていたきつね。
その「うそ」を見抜けない、樺の木と土神。
これを恋愛の話とみるならば、樺の木の気持ちはわかるような気がします。
特に、地面に根を下ろしている(自由に動けないと思われる)樺の木にとって、星の話や音楽の話をしてくれ、ハイネの詩集をかしてくれる、親切なきつねのほうが話していて楽しいでしょう。
それが、「うそ」だったとしても。
樺の木にとって、きつねは「あたらしい情報」に触れ、夢をみさせてくれる、好ましい存在だったにちがいありません。
そして、きつねは樺の木をよろこばせたい一心で、うそを重ねていってしまいます。
きつねは見栄っ張りで嘘つきですが、「樺の木」への気遣いはありました。
それに対して、「土神」は自分の言いたいことを一方的に話し「樺の木」がどう感じるかということにはまるで無頓着のようです。
「神」であるのに、むしゃくしゃして樵(きこり)をいじめてしまうような土神です。
「神」であり尊敬されるべき自分が「畜生のきつね」よりも劣っていると感じる「土神」。
嫉妬と怒りが抑えられなくなった「土神」。
もし、「土神」が「狐」の本当の姿を知っていたら、最後の悲劇はおこらなかったでしょうか。
どうなんでしょう、、、、,。.
しかし、それでも、「樺の木」がそれでも「きつね」のほうを好きだったら、同じ結末をむかえたのではないでしょうか。
私の中にも、土神ときつねがいると思います。
嫉妬したり、卑屈になったり、誰かと張り合ったり、、、、。
つまらないことで見栄をはったり、、、、。感情が抑えられなくなったり、、、、。
賢治作品の中では、重く感じる作品です。
子供向きではないかもしれません。
中学生以上におすすめです。
土神ときつね
宮沢賢治
「注文の多い料理店」収録 新潮文庫
※絵本でも出版されているようですが、読んでないので、新潮文庫の物を紹介します。