先日道を歩いていたら、若いお母さんと小さなお子さんが手をつないで歩いていました。幅のある県道で私とは反対側の歩道でした。
町の中心部から郊外へ向かう道。実際、車で移動する人がほとんどで、徒歩、というのは私も含めて珍しいめずらしい。ちなみに私は運動不足解消のためあえて歩いていたのです。
若いおああさんは大きな荷物をもって小さな子をつれて大変だなあ、と思っていていたのですが、女の子が転んでしまいました。
「痛いよ」「痛いよ」と泣き叫ぶのですが、お母さんは「血い、でてないからよかったじゃん」といって知らん顔です。
かなり長い間、泣き叫ぶこどもの声と「るっさいなあっ」という感じのおかあさん。
子育てで疲れているんだろうか、この道を徒歩で歩いているというだけでも理由ありなのかもしれない、どこへ向かって歩いているのか、この辺の住人なのか、、、びゅんびゅん車がはしる道路の反対側からいろいろ考えました。
痛いよ~といったら痛かったね、とそれだけでよさそうなのに、、、、、。だっこしてあげたらもっといいけど、大荷物で徒歩ではおかあさんがかわいそうかな。
横断歩道もなく、道の反対側からオロオロと心配することしかできませんでした。
むすめが小さかった時のことを思い出しました。
娘を連れて夫の両親を訪ねた時のこと。
桜の季節だったので、一緒に井之頭公園に花見に行くことになりました。途中で娘が転んでしまいました。そうしたら、おばあちゃんが「痛くない!」といったので私はびっくりしました。「え?痛いに決まってるじゃん」と。(心の声)
おばあちゃんの中では「痛い」のをがまんするのが「えらい子」のようでした。
「泣かない」のも「えらい子」でした。
私も娘も「は?」というかんじでしたが、こっそり私は娘に「痛かったよね」といいました。
あの若いお母さんは、痛い時に「痛い」ということが許されないで育ったのかもしれないな~、と勝手に想像しました。